こんにちは、高田です。
今日は、正解に駆られる感覚について書きたいと思います。
先日、久しぶりに会った後輩と話をしている中で、キャリアについての相談を受けました。
今すぐ会社を辞めて起業するか、もう少し会社に勤めてから起業するか。
「どちらをとればより自分にとってより良いのか」ということを聞かれました。
僕は、「どっちでもいいと思う」と答えました。
彼は、僕に聞けば「今すぐ辞めて起業すれば良い」と背中を押してもらえると思っていたらしいのですが、僕は本心からどちらを選んでも彼なら成功できると思っていました。
振り返ってみると、誰もが学生の頃は、ある意味「正解に駆られていた」と思います。
ただ、社会に出てからは正解がないのが当たり前だと理解し、正解を追いかけなくなりました。
では、なぜ正解に駆られる人生から抜け出すことができたのか、考えてみたいと思います。
正解を求めるのは教育のせいなのか
この話題について考えるとき、まずはじめに出てくるのは「学校教育」についてでしょう。
「学校教育」が正解を求めるものだからいけないんだ!
たしかに、その影響はあるでしょう。
ただ、子どもはある程度の正解が用意されていないと思考すらできないのではないかと、僕は思っています。
最初から、「答えはないからなんでも良いんだよ!」というのは難しすぎるのです。
では、「学校教育」が正解に駆られる原因ではないとすると、なにが原因になっているのでしょうか?
正解を求めることで現状維持できる
人には、現状維持バイアスというものがあります。
変化を恐れる感情を生み出すものです。
正解がないということを薄々は理解しながらも正解を求めるというのは、この現状維持バイアスがかかっているからだと、僕は思います。
なぜなら、考えても正解が出ないので、いつまでも行動にうつらないで済むからです。
言い換えるならば、正解を追い求めれば追い求めるほど今と変わらないで済むから、人は「なにが正解なのか」という高尚な問いに挑み続けるのです。
正解から解放されるために必要なこと
今すぐ会社を辞めて起業すべきか。
それとももう少し会社で働いてから起業すべきか。
冒頭でも述べましたが、どっちも正解です。
もっと言えば、どちらを選んでもその決断を正解にすることができます。
それを知ることが「正解」という呪縛から逃れる唯一の方法だと思います。
どっちでも良いから正解になるまでやれば良いのです。(関連記事:できるまでやればできる)
まとめ
とはいっても、「どっちの方が成功する確率が高いか?」を考えるべきではないかという意見もあると思います。
ただ、そんな確率は誰にもわかりません。
計算できたとしても、それは仮定の下で成り立つ計算式であって、その仮定が崩れてしまえば、その計算は何も意味を為し得ません。
つまり、計算なんてせずに決断したことを正解にするしかないのです。
元から正解なんてありません。
自分の思考や行動がそれを正解にするのです。
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