こんにちは、高田です。
最近、子どもが生まれました。
自分が1994年生まれで子どもが2024年生まれなので、生年月日を書くときに迷わなくて済むのはいいのですが、30歳も年下の人と暮らすというのはなんとも新鮮なものです。
今回は、率直に子どもが生まれて考えたことをまとめておきたいと思います。
読んでくださるあなたにとって価値があるかはわかりませんが、ぜひお時間ある方は高田的親子論を読んでいってください。
自分が子どもを育てる経験をしなければ、教育は語れないのか?
18歳でテニスコーチとしてのキャリアをスタートし、それから12年間さまざまな子どもやご家庭と向き合いながら、
教育を生業にしているものとして、これまでも「子ども」について深い思考を繰り返してきました。
そのため、普通の人と比べれば子どもや教育に関する考えはまとまっていると思います。
ただ、漠然と当事者にならなければ(自分が子どもを育てる経験をしなければ)、見えないなにかがあるだろうとは思っていました。
そして、今回子どもが生まれてわかったことがあります。
それは、これまで自分が考えてきた子どもと教育についてのあれこれは、大方間違いではなかったということです。
特に親子という関係がどういうものなのかについては、本質は外していなかったと確信しています。
ここからは子どもが生まれたときのリアルな思考経路をそのまま綴るので、すこし文章的に読みにくいかもしれませんが、ご了承ください。
親は子どもを一時的に預かっているだけである。
子どもが生まれたときに素直に思ったこと。
この子が命を失う確率が高い期間だけ、それを回避するために自分が預かる感じだな。
それだけでした。
自分でもなんてドライで薄情だなとは思ったのですが、
生まれてきた子に対して、
どうなってほしいもこうなってほしいもありませんし、
じぶんの人生はじぶんでつくるものであって、
じゃあそのなかで親はなんのためにいるのかと問うたとき、
あー最初は人間としての機能が出来上がっていなくて死にやすいから、それを回避するために近くにいるのが親なのかと。
となると、授かりものでもなく、預かりものだな。
預かりものということは預け主がいるはずで、預け主は誰なんだ?
社会か、いや世界か。まあ、神は信じていないしなぁ…。
なんてことを考えていました。
でも、これはどの時代も変わらない、親子関係の本質なのではないかと思っています。
子どもの成長に対して、親ができることはほぼありません。
そのあたりは、周りの友だちや大人が牽引してくれます。
ただ、子どもの心身の安全を守ることは、親ができます。
だから、僕はこの度子どもを預かっただけで、この子が自分で命を守れるようになったら、返すだけだと考えているのです。
まとめ
「そんな冷静にいられるのは今だけだよ!」と諸先輩方からのツッコミを頂きそうですが、
子どもや教育について知れば知るほど、体験すればするほど、この考え方が強化されていってしまうのは確かです。
もちろん、これから子育てを経験していくことで変わる部分もあるかと思います。でも、土台は変わらない気もします。
まあ変わったとしても、変わらなかったとしても、家族との時間を楽しんで過ごしたいと思います。
そんなこんなでこれからも高田をよろしくお願いします。
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