こんにちは、高田です。
先月、誕生日を迎え、ついに30歳になりました…。
そこで今日は、僕(30)の人生論を書いておこうと思います。
※以下、すべて僕個人の持論です。ご気分害された方は、大変申し訳ございませんが、そっとこのページを閉じてください。
自分にしか生きられない人生を生きる。
なんのために生きるのか?
この問いを突き詰めていくと、人生に意味などないという答えに辿り着きます。
ここで言う意味がないというのは、決められた意味が存在しないという意味です。
つまり、生きる意味というのは自分で決めるものだということです。
もう少し正確なニュアンスとしては、生きる意味は自分で決めてよいということです。
自分以外の周りのひと・もの・ことに、自分の人生はまったく縛られないのです。
もし、なにかに縛られていると感じるとしたら、それは自分の錯覚です。
なにかに縛られていると考えることで、自ら生きる意味を定義づけることから逃げているのかもしれません。
なぜなら、自分で決める=自分で全責任を負うことだからです。
家族が、子どもが、親が、学校が、仕事が、能力が、地域が、…。
そんなの全部自分で自分の人生の答えを決めることから逃げるための言い訳でしかありません。
強者の論理だと言われるかもしれませんが、このように考えなければ自分に主導権のある人生にはならないと思うのです。
自分にしか生きられない人生を生きる。
現時点では、僕自身の生きる意味は「自分にしか生きられない人生を生きること」だと意味づけています。
自分にしか生きられない人生とは、「自分が得意なこと」、「自分の血のつながりでしかできないこと」にフォーカスする人生のことを意味します。
具体的には、
自分が得意なこと
- テニス事業(ローカルスポーツビジネス)における経営戦略を考えること。
- 教育にかかわること。
- 上記にかかわる仲間を幸せにすること。
血のつながりでしかできないこと
- 家族のこと。
- 実家のこと。
にのみフォーカスして、自らの残りの命を費やすということです。
理由はシンプルです。これら以外のことは、僕よりも優秀で情熱を持った人たちがやってくれるからです。
このように考えはじめたのは20代半ばで、最近になって再度強く思い直すことになりました。
何度かこのブログでも触れていると思いますが、そもそも僕はあまりスタートアップの起業家向きではありません。
ただ、やはり自ら事業を起こす者として、現代の煌びやかなスタートアップの世界がとても魅力的に映ることがあるのです。
隣の芝は青い的なやつです。
だから、これまで仕事を始めてから10年間、何度も売上げ規模の拡大を目指すような事業の計画を立て、実行しようと試みました。
でも、頭ではこうすれば良いとわかっていても、心と体がまったく動きませんでした。
学校の部活で全国大会を目指していたときや、テニスクラブの経営再建に奔走していたときのような心と体が動くままにという感覚がまったくなかったのです。
これらの経験は、僕にとってスタートアップ起業家失格の烙印を押された、挫折でした。
だって、億万長者になる可能性がほぼなくなったわけですから。笑
ただ、そのとき僕のなかには失望よりも、はるかに大きく広がるあたたかい希望がありました。
あの凄まじい世界で競争することに、自らの心と体が反応しなかったことに対する安堵。
自らの価値観の解像度が高まり、自分が大切にすべきことが明確になりクリアになった視界。
自分が大切にしたいことを大切にして良い人生だと。
だから、僕は「自分にしか生きられない人生を生きる」のです。
まとめ
思いつくままにここまで書き進めてきましたが、まとめまできて重大なことに気がつきました。
タイトルと全然違うことを書いているということに…。
でも大丈夫です。
なぜなら、僕には小学3年生の作文コンクールで賞を取るほどの文才があるからです。
なんのために生きるのか。
まずは「人生の目的」を決めましょう。
そのために大切なことは様々なもの・ひと・ことから得たフィードバックをもとに、「じぶんと向き合う」ことです。
自分が最も恐ろしいものです。でも、ひたすら向き合い続けるのです。
そうすれば、自分にとって意義のある人生が見つかり、それを生ききることができるのではないでしょうか?
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