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テニスガーデンレニックスの運営体制の変更について

こんにちは、高田です。

テニスガーデンレニックスの運営体制変更が、5月1日に発表となりました。

13歳からの16年間で、生徒、アルバイト、コーチ、経営者とあらゆる立場でレニックスにはお世話になりました。

最初に断っておきますが、関わりがなくなるわけではありませんし、表からみれば特になにも変わらないと思います。

ただ、ひとつの区切りとして、レニックスでの16年間を振り返りたいと思います。

今回の投稿はとても長くなります!笑

ぜひ最後まで読んでいただけるとうれしいです。

※ここに書かれていることは全て僕個人の記憶と意見です。

なぜレニックスでテニスをはじめたのか?

13歳。僕はどうしても普通であることが嫌だった。

今振り返ってみれば、受験勉強もスポーツもそれなりに出来ていたとは思うのですが、当時はとにかく自分の特徴のなさに嫌悪感を抱いていました。

入学した慶應義塾湘南藤沢中等部(SFC)は、当時からそれなりにテニス部が強く、2つ上の先輩が全国中学でベスト8(?)まで勝ち上がる姿をみて、

当時1年生の高田少年は「自分もメンバーとして全国大会に出たい!」という思いを抱きました。

とはいえ、当時の自分のレベルは小学生の頃に近所のテニススクールで趣味的にやっていた程度。

しかも、同期には10・12歳以下の全日本ジュニアで活躍していた子や、オレンジボウル出場経験のある子、カルフォルニア州ベスト16の子がいました。

もちろん、先輩はみんな上手。

もちろん、他の学校には小学校低学年から努力し続けてきたジュニア選手だらけ。

でも、なぜか自分がメンバーとして全国大会に出るという目標に疑いはありませんでした。

そこでテニススクールを探しはじめました。

荏原SSCやエバーグリーンなどにも体験にいきましたが、一般的なテニススクールの体験(レベルがレベルなので当たり前です!)に止まり、

これでは自分が成し遂げたいことにはたどり着けないと思い、姉が通っていたこともありレニックスの体験に行きました。

ちなみに当時のレニックスは県ジュニアに出られるかどうかの高校生が何人かいるくらいのレベルでした。

しかし、これまで体験した一般的なテニススクールにはなかった熱量や勢いを感じ、入ることにしました。

これでめでたく、リトルチーム(現ジュニア2)に入り、ジーパン+運動靴でテニスをするような小学生と一緒に全国大会を目指しはじめることが出来ました。

その後、文字通りに雨にも負けず風にも負けずがむしゃらに頑張っている姿をみて、強化チーム(現ジュニア3)をやっていた矢島コーチ(現矢島社長)が、1年も経たないうちに上のクラスに引き上げてくれました。

この頃の矢島コーチはただの鬼でしたが、なにも知らない純真無垢な僕は「これくらいやらなくちゃいけないんだ!」と素直に受け止め、毎日テニスをはじめる前の過度なトレーニングでフラフラになってから、さらに過度な練習に取り組んでいました。笑

その後、中学生半ばで僕たちを1期生として育成チーム(現ジュニア4)がスタートしました。もちろん、この頃の矢島コーチは極・鬼です。

確か、この頃から僕は先輩や同期に勝てるようになりはじめて、自分の代になったときには主将としてプレーすることになりました。

そして、中学3年生で県中学優勝・関東中学準優勝・全国中学ベスト16の成績を残すことができました。

その後も高校ではインターハイ出場を目標に頑張りましたが、その目標は果たされませんでした。

それでも、レニックスで選手として過ごした5年間が人生の基盤をつくったともいえるほど、大切なものを得ることができました。

なぜレニックスのテニスコーチになったのか?

18歳。僕はまだまだ普通であることが嫌だった。

高校を卒業してから、僕はプレーヤーではなくコーチとしてテニスに関わることに決めました。

正直、プレイヤーとしては高校までで燃え尽きていましたし、教育者・指導者になりたいと考えるならば、なるべくはやく活動しはじめることで、先にリード出来ると思っていました。

当時は誰にも言っていませんでしたが、この頃からおぼろげに「レニックスで働けたらいいなぁ…」と思っていました。

だから、大学生の僕はテニスを仕事にするために、2つの目標を立てました。

① 母校テニス部を学校史上初のインターハイ・全国選抜出場に導く

② テニス以外で初任給以上の収入を得られるような事業をつくる

結果として、どちらも達成することができました。

母校のテニス部では選手やコーチ陣に恵まれ、事業では師匠ともいえる存在に恵まれました。

これらの結果を残し、大学4年生も終わりを迎えたころに矢島さんから「レニックスを一緒にやらないか?」と声をかけてもらい、テニスコーチとして働くことになりました。

また、大学時代お世話になったマーガレットコートの宇田さんとの出会いも、レニックスでした。

僕が中学生くらいの頃に、代行かなにかでレッスンをしてくれたのが宇田さんでした。

そんな不思議なご縁もレニックスからいただきました。

なぜレニックスの経営者になったのか?

22歳。すこし普通じゃなくなってきた。

レニックスに参画する少し前から、ホームページの制作と新たなコーチ陣の採用をはじめました。

まず、高い指導実績があるのだから、絶対にホームページを上位表示すれば生徒が集まることはわかっていたので、当時得意だったSEO施策を用いてホームページをタダで制作しました。

また、YSCでヘッドコーチをやっていた溝畑コーチも仲間になってくれて、他のテニススクールならばヘッドコーチを張れる人材を中心に集めることができました。

そして、最初の3年間は破竹の勢いでテニススクール事業を伸ばしました。

その後、テニスクラブ全体の経営について、前オーナーと話し合いをはじめることになりました。

ん?これはこれまで噂に聞いていた話よりも数字やばくないか?

なるべくはやく経営権を引き継がないと、このままテニススクールだけ頑張っていても、今後どうにもならないぞ…。

正直、そんな状況でした。

ここから3年間はとてもとてもとても苦しかったです。

新旧の板挟みのなかで、1つのことを整理するだけでも膨大な時間と労力がかかるにも関わらず、事業の成長を止めてはならない。

これは結構すり減りました。

話し合いをはじめて1年で取締役社長に就任し、会社内の整理と未来への投資をすすめ、全部で3年かけてこれまで旧オーナーの家族経営だった会社の株主構成を完全に入れ替えることができました。

旧体制から新体制に引き継ぐ。

今思うと、これが僕にできるレニックスを後世に残していくための、最大の役割だったのかもしれません。

なぜレニックスの運営の第一線から離れるのか?

29歳。もはや普通ではなくなった。

結論からいえば、これ以上今の僕がいることがレニックスの成長を妨げることになると判断したからです。

正直、旧オーナーから体制変更した2023年1月、僕が経営者としてレニックスに出来ることはやりきった感覚になっていました。

テニススクールを伸ばした3年間や潰れかけの状態から再建してきた3年間は、とにかくがむしゃらに取り組むことができましたが、

その後の自分はあまり前に進むことが出来ませんでした。むしろ、どっちが前なのかもわからなかったというのが正しいかも知れません。

明らかに目標を見失っていました。

もちろん、まだレニックスが完全な持続可能性を手に入れていないのは確かです。

まだまだやるべきことはたくさんあります。

もっと頑張れよ。

そんなことは言われなくても自分が1番わかっています。

でも、頭も身体もそこに向かえていない自分がいることはわかっていました。

だから、そんな自分が存在することが、レニックスにとってただの足枷になってしまっているような感覚があったのです。

2023年5月。このことを矢島さんに伝えました。

テニスガーデンレニックスに関わるみなさんへ

30歳。レニックスが僕を普通ではない何者かにしてくれた。

さて、ここまで長々と書いてきましたが1番お伝えしたいのはここからです!!

僕は、テニスガーデンレニックスの生徒として、アルバイトとして、コーチとして、経営者として、関わらせていただいたすべての方々のおかげでここまで成長できました。

テニスガーデンレニックスをご利用いただいているお客さま、一緒に働くスタッフのおかげでしかありません。

ありがとうございました。

もちろん、これからもレニックスのために貢献できるように、僕自身が成長し続けます。

むしろ、関わり方が変わるこれからこそ、新たなスタートだと思います。

最後に、この16年間お互いに立場は変わりつつも共に戦いつづけた矢島さんへ。

選手のころには、

日が昇る前のコートで真っ暗な中朝練に付き合ってくれたり、

テニスの練習なんだか、精神修行なんだかわからないレッスンだったり、

練習が終わったあとのお風呂や帰りの車で色々話しをしたり、

読んでいる本を貸してくれたり、

一緒に仕事をするようになってからは、

常に僕が活躍しやすいように環境を整えてくれたり、

最後の最後まで僕のわがままを聞き入れてくれたり、

そのあとのことまで一緒になって考えてくれたり。

人に対してどこまでもまっすぐに向き合う姿勢を貫く大切さは、

矢島さんの背中をみて学びました。

そして、きっとこれからもそのような人たちがレニックスから育ち、

一緒にレニックスを新しいステージに連れていってくれると信じています。

これからもレニックスならびに高田衛をよろしくお願いいたします。

2024.05 高田衛

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